しんのじの夏-2(アップが思いっきり遅れてごめんなさい!)

 何となく忙しいような、落ち着かないような毎日を過ごしながら、ふと気がついてみると
日記がほとんど一年近く更新されていなかった!もう、あの北の大地でカミサンと二人艇を
漕いだ思い出は、なんと1年近く前の話になってしまったのか!
 
 ってことで、11ヶ月前の思い出に遡る。さらにその1ヶ月ちょっと前、出張先の神戸で、彼
の奥様とご一緒したのである。「彼」とは、北海道は小樽のさらに北西、積丹半島にプロの
シーカヤックガイドとして生計を立てる「いわお」さんだ。彼の奥様は、なんと僕と仕事仲間
でもあり、ある意味、彼らは異色にして最高のカップルであると断言出来る。本当に自然が
大好きな二人なのだ。


 その初夏、やはり出張絡みで北海道への上陸を果たした僕は、同じく仕事を絡めて北海
道行きと相成ったカミサンと二泊をダブらせることが出来、そのうちの一泊を、素敵な彼ら
のログハウスにお邪魔させてもらった。ここがもう、林の中にあって、絵に書いたような夢
のアウトドアライフってシチュエーションだったのだ。ただ、手入れに半端なく労力が必要な
ことは容易に見てとれ、中途半端な気持ちではここに住めないな、ということも痛感したの
だった(続く。なるべく早く更新したいと思っています(汗))。

子羊で沈黙・・・の巻-3

あと、年齢や生育環境の違いと、飼料の違いも興味深い。年齢は乳のみ子羊(アニョー・ド・レ、生後1ヶ月以内の、母乳だけ飲んでいる、ミルキーで柔らかな肉)、と、それ以降、1歳以下のものを子羊といいます。wikiに、わかり易く解説してありますので、ご興味がおありの方はご一覧下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E5%AD%90%E7%BE%8A)

海辺の断崖で、潮風に吹かれた牧草を食べて育ち、ほのかな絶妙の天然塩味が付いた子羊は、フランスではプレ・サレなんて言って珍重されますね。あと、グレイン・フェッドと言って、草の代わりに穀類だけを与えて育てた、臭みがなく(人によっては物足りないと思うかもしれないけれど、これはこれで旨い!)、肉の旨味の粋が詰まったような肉塊を、ローズマリーなどと一緒に丸焼きすると美味しいですよ。

もし、本当にいろんなラムの部位や種類をお楽しみになりたい方は、僕が個人的に頼んでいる下記のサイトを訪ねてみられてはいかが?一応、単なる僕自身のイチオシで、決してアフィリエイトではございませんので、ご心配なく(笑)。

http://www.gourmet-world.co.jp/shopping/?t=231108&page=category&cate=147

しんのじの夏-1

 さあ、今日は待機だけど運良く呼ばれずに過ごせているので、久々にもういっちょ書くとしますか。
 しんのじの夏、そこそこ忙しいですが、どうにか楽しくもやっています。7月に入り、海漕ぎ仲間のaotantさんのロール(シーカヤックで転覆しても、体の捻りとパドルさばきを利用して、脱艇せずにクルリと一回転して戻る技術)の仕上げにお付き合い。昨夏からトレーニングを怠らなかった彼、見事に習得しました!琴海の無人島のビーチで、男二人、フネででんぐり返ったり、水中メガネにシュノーケルでスキンダイビングも楽しんだ。「足切り」という怖い名前の、タイラギ貝の原種が、泥浜に逆立ちして刺さるように口を空けている。
 朝イチで、父のお墓の生垣刈りにも行った。親父には不精で申し訳ないが、年に2回だけだが、しっかりと生垣を刈り込む。やぶ蚊を追い払いながら、小一時間、汗まみれになって刈り上げると、千の風でもないけれど、何となく涼風が吹き渡ってくれる気がして心地よい。
 しんのじ、海外遠征にも出ましたよ!と言っても、九州の外に出ただけですが(笑)。その話については、ま、明日にでも!

子羊で沈黙・・・の巻-2

 たしか僕が初めて子羊を食べる機会を得たのは、以前、興善町にあったロシア料理とフレンチの名店、Hであったろう(今は観光通りに移転)。子羊とりんごのカレーソース、という料理だったと思う。おそらく、子羊の腿肉や背肉の切り落とし的な部分を、クリームの効いたカレーソースで煮込み、りんごのフレッシュさを残しながら仕上げた一品だった。ほどよい脂が乗った、かすかに癖のある肉は、その後、一生忘れられぬ好きなものの一つとなった。
 その後は、ほとんどレストランで出される子羊のスタイルは、その1で書いたように、上品に骨の柄をつまんで食べるスタイルの背肉ばかりで、このスタイルを幾度となく味わって来た。まず、焼き加減。これがモノを言う。完全なレアはちっとも旨くない。マトン(成羊肉)ほどではないが、脂にわずかながら独特の味があり、和牛みたいに低温でも口内で溶ける感じではない。調べてみると子羊は44℃だそうだ。ちなみに和牛の脂肪の融点は異常に低く、20℃前後とのことである。
 ということで、子羊は、火が通り過ぎてはジューシーさが絶たれるが、じんわりと肉の奥まで熱が入り、脂が十分に温まっていることが望ましい。なので、ロゼといった感じの焼き上がりが一番である。ラムラック(切り離していないスペアリブの長方形の塊のままの形)で焼き上げるのだが、火の通し加減でシェフの腕がわかろうというものだ。今まで食べた中で、焼き過ぎはそれほど経験していないが、ほんの少し熱の入りが足りず、脂が妙にしつこいという焼き上がりの肉にはかなりの回数、遭遇してきた。また、切り口がかなり鮮紅色に見えても、意外としっかり脂に熱が加えられた焼き上がりになっていることがあるかと思えば(比較的最近食べたのでは、中通り脇の老舗フレンチPの子羊背肉の焼き上がりは秀逸)、その逆もあったりする。

子羊で沈黙・・・の巻-1

 しんのじ、実は子羊肉が大好物なのである。日本国内のレストランは勿論、若い頃は海外でも子羊肉を食べて回っている。例えばフランス、イタリア、オーストラリアなど。また日本にはNZの質のよい肉も入ってくる。
 子羊肉の面白いところは、部位によって、産地によって、年齢によって、また飼料の違いによって味が微妙に異なる点だ。また、年齢による子羊の味の違いも若干わかるし、うまくいけば食べている飼料の違いもわかることがある。
 まず、部位による違いをいこうか。とは言っても、日本でレギュラーに手に入るのは主に二箇所。第一位は何と言っても背肉(言ってみればスペアリブ)。あの、片手で細い骨を持てて、上品に三口位で食べられるアレだ(フレンチやイタリアンに、たまに行かれる方はわかるだろう)。塊で買う時には、フレンチラムラックなんて呼び名で、500グラム単位ぐらいで売っている。それを骨に沿って切り分ければ、片手で持てるサイズになるわけだ。
 そして、入手し易さの第二位は、ちょっと差がついて、腿肉。一本モノの腿肉は、一本で2キロ前後もあるであろう。骨付きで、全長30センチを超えるなかなかの大きさの物体である。例えて言えば、「はじめ人間ギャートルズ」の、手で骨の部分を柄のように鷲掴みして食べる、あの肉塊のような感じと言ったらイメージしやすいだろうか。これが、ネット等の卸で冷凍モノを買えれば、4000-5000円と格安なのである(単純計算すれば、100グラム当り200円ちょっと)。とりあえずアップしてておき、ぼちぼち「その2」、「その3」と繋げて参りますね。

村上春樹氏のカタルーニャ国際賞受賞記念スピーチ-3

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する
拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた
平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が
上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油
供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこ
までも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によって
まかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国
の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。
原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいん
ですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、
まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使え
なくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、
「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の
蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は
現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは
「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、
そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもあり
ました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、
必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々
は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさ
なくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返される
でしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった
人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受け
ました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、
言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界
のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に
代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界
中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」と
あざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギー
を、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、
日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方
となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージ
が必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはず
です。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事
な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害
を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神が
より強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし
損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は
死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄に
するまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々と
した、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が
揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進め
なくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関わ
れる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくて
はなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げて
なくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き
歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにその
ようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は
再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界
に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな
自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデア
のひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのよう
な危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの
静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、
誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。
依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題
を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、
日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られること
にもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉し
く思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、
人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることは
できません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には
苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知って
います。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になる
ことができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形
作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻
な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのでは
ないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取
りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまで
も受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人
々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくだ
さったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝
します。そして先日のロルカ地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表し
たいと思います。

村上春樹氏のカタルーニャ国際賞受賞記念スピーチ-2

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。
我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれ
らがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色
を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、
消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕には
わかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では
「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてき
たのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼした
かもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段か
地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでい
ます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくで
しょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い
歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけ
にはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。
どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといっ
て、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつ
なのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしか
ありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごと
についてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを
持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできませ
ん。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というもの
ではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震津波の被害にあった六基の原子
炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散ら
しています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃
度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされまし
た。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んで
いた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりで
はなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子
発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったため
です。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、
安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。
なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、
営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進め
るために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなり
ません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活
を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然の
ことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けて
いるけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるい
は、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本
国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、
あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態
は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。
1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾
投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般
市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の
多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったと
いうことです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の
身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだの
です。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、
もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使する
ことはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが
日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこには
そういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも
被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという
点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点に
おいては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて
加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって
放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどの
ようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史
上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけで
はありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々
自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。