村上春樹氏のカタルーニャ国際賞受賞記念スピーチ-3

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する
拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた
平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が
上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油
供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこ
までも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によって
まかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国
の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。
原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいん
ですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、
まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使え
なくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、
「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の
蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は
現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは
「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、
そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもあり
ました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、
必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々
は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさ
なくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返される
でしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった
人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受け
ました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、
言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界
のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に
代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界
中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」と
あざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギー
を、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、
日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方
となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージ
が必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはず
です。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事
な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害
を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神が
より強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし
損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は
死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄に
するまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々と
した、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が
揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進め
なくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関わ
れる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくて
はなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げて
なくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き
歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにその
ようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は
再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界
に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな
自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデア
のひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのよう
な危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの
静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、
誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。
依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題
を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、
日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られること
にもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉し
く思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、
人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることは
できません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には
苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知って
います。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になる
ことができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形
作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻
な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのでは
ないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取
りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまで
も受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人
々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくだ
さったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝
します。そして先日のロルカ地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表し
たいと思います。